戊辰戦争終結から150年を迎える平成30年(2018年)。
戊辰由来の地に脈々と受け継がれる武士道、サムライスピリッツをお伝えします。

登場人物紹介

  • 西郷頼母(さいごう・たのも)

    文政13年~明治36年(1830年〜1903年)
    西郷頼母は代々会津藩家老を務める名家に生まれ、33歳で家老職に就任。松平容保の京都守護職の拝名にあたっては、就任辞退を諫言しました。
    鳥羽・伏見の戦いの敗戦で容保が会津に戻ると、新政府への帰順以外に藩を救う道はないと主張。しかし主戦論を覆すことはできず、後に抗戦派に命を狙われることになります。白河口の戦いでは、総督として奮戦するも敗戦。その後、新政府軍が会津若松城下まで接近すると、家老屋敷に残された頼母の一族の婦女子21名が、壮絶な自決を遂げます。箱館戦争に参戦するも敗北し捕えられ、赦免後には各地の神社の宮司を務め、74歳で亡くなりました。
  • 上坂助太夫(こうさかすけだゆう)

    ?~1895年
    磐城平城安藤家の家老。戊辰戦争では、各地への出兵を指揮するともともに、泉・湯長谷藩の統率など行い、新政府軍と戦いました。弾薬が尽きるまで戦うも、1868年8月30日に磐城平城が陥落。自ら城に火を放ち敗走しました。
  • 河井継之助(かわいつぐのすけ)

    文政10年~明治元年(1827年〜1868年)
    26歳で江戸の佐久間象山のもとで砲術を学び、慶応元年(1865)、郡奉行に就任。藩政改革に着手し、フランス式の銃隊訓練を行うなど、兵制改革も実施しました。鳥羽・伏見の戦いで幕府方が敗れると、急ぎガトリング砲をはじめ最新兵器を購入し、長岡に帰還しました。慶応4年4月、長岡藩の軍事総督に就任。その後、長岡藩の家老・軍の総帥となります。戊辰戦争時には中立的な立場に立ち、平和的な解決を望むも交渉は決裂。占領された長岡城を再び奪還するなど新政府軍を3ヶ月に渡り苦しめるも、その時に負った傷が原因で、会津に退く途中に没しました。享年42歳。
  • 大鳥圭介(おおとり けいすけ)

    天保4年~明治44年(1833年~1911年)
    岡山藩の出身で、父は医師。漢学や医学を学び、江川塾で西洋砲術を修め、元治2年(1866年)に幕臣に取り立てられました。鳥羽・伏見の戦いの後、江戸開城に反対し、伝習隊(※伝習隊=徳川幕府が作った近代軍隊)を率いて江戸を脱走。戊辰戦争では、土方歳三率いる新撰組と合流し、北開東から会津まで転戦します。明治元年(1868年)には、仙台で榎本武揚が率いる海軍と合流。箱館戦争では、陸軍奉行として粘り強く戦うものの、五稜郭で降伏。赦免後は、英蘭仏語といった語学力が買われ、明治政府で外交官となります。後に学習院長に就任し、教育者としても日本の近代化に貢献しました。
  • 土方歳三(ひじかた としぞう)

    天保6年~明治2年(1835年〜1869年)
    新撰組副長。鳥羽・伏見の戦いで生き残った新撰組を率い、宇都宮・会津と戊辰戦争の戦地を転戦しました。宇都宮で足を負傷した土方は、療養のために会津に向かいます。清水屋旅館に宿泊し、東山温泉でも湯治をしたと言われています。後に榎本武揚らの旧幕府軍の艦隊に加わり、函館に渡航。
    1869年、五稜郭より出撃し、一本木関門付近で銃弾を受け、戦死。享年35歳。